邱永漢詳細年譜

作家、事業家。邱永漢氏の詳細な年譜。

 

11日、原稿が売れず、無一文に近い状態で正月を迎える。長谷川伸邸、佐藤春夫邸、壇一雄邸に新年の挨拶に行く。

28日、檀一雄、吉行淳之介、有馬頼義、三浦朱門、五味康祐の各氏を自宅の食事に招待する。
・「濁水渓」が直木賞の選からもれる。

3月 「文学界」壇一雄氏の推薦と「文学界」編集長、尾関栄氏の厚意により「故園」を発表する。 

8月 「文学界」誌小説「検察官」を発表する。

  「香港」第一回分を「大衆文芸」に連載(11月号まで)する。

11月22日 薄井恭一夫妻の案内で小島政二郎夫妻を、姉夫婦の案内で母沢寛夫妻および白井喬二を自宅での食事に招待する。

 

(参考)
 邱永漢著 『わが青春の台湾わが青春の香港』、同著『邱飯店のメニュー』。
同著『香港発・娘への手紙』

(社会の動き)
  7月20日 日本政府、長期経済計画立案のため経済審議庁を経済企画庁に改め発足。


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「大衆文芸」1月号に「密入国者の手記」を発表する。
・西川満氏から「オール読物」新人杯に応募してはどうかと勧誘の手紙をもらい、「竜福物語」(のち「華僑」に改題)を執筆し応募する。
・千数百篇の応募作の中から「竜福物語」が最後の5篇の中に残る。
3月 
「オール読物」新人杯選考委員会にかけられることが雑誌に発表される。さきに山岡荘八氏や村上元三氏から「才能があるかもしれんぞ」と持ち上げられ、腕試しで応募した第二作が九百何十篇のなかの最後の五篇に残ったので、もしかしたら本当に自分は才能があるかもしれんと、妙な自信が出てくる。
・ 小説「敗戦妻」、「客死」を書く。
・長女の痣の治療を第一の目的とし、第二にひょっとしたら作家になれるかもしれないという目的をもって、香港から夫人、長女とともに日本に移ることにする。
・日本領事館に行き、「日本に戻りたい。在留許可をもらいたい」、「義兄のチューインガムの会社の
役員をしている」と登録謄本をみせ、「これがあれば一年のビザをあげられる」とアフィダビッド(供述ガ真実であることを宣誓し、署名し、公証を受けた供述書)の上にハンコを押してもらう。

4月 夫人の両親、兄弟に送られ、香港・九龍の碼頭からフランス郵船ベトナム号に乗り込む

15横浜港に到着。姉夫婦、弟夫婦、叔父、友人の兄で文藝春秋社の社員、薄井恭一氏の出迎えを受ける。薄井氏から「竜福物語」がオール読物」新人杯の選からもれれたことを知らされる。
16日 国立第二病院に長女を連れて行き、一週間に一度治療を受けに来るよう言われる。不動産屋に駆け込み、国立第二病院近い九品仏駅付近の一戸だての家を借りる。

・西川満氏の案内で長谷川伸が主宰する新鷹会に出席し、席上「客死」を朗読する。挨拶に立ち、「東京に一、二年住む間に文学の修行に全力を投入したいが、芽が出なければ香港に舞い戻るつもりである」と述べ、生意気だと陰口をたたかれる。
・九品仏駅近くの一戸だての家を借りることにする。その借家で「濁水渓」の執筆に取り組む。
・「濁水渓」を完成。新鷹会の事務を担当する島源四郎に同会が主宰する「大衆文芸」への掲載を依頼。

8月
「濁水渓」第一回を連載(「大衆文芸」。10月まで)。
・作品の内容と掲載誌の間に懸隔を感じ、救いを求めたい欲求に駆られる。大学在学中、台湾からの留学生の先輩、郭徳焜が壇一雄と親交を持っていたことを思い出し、作品を読んでもらいたい作家として壇一雄の名を思いつく。
・「濁水渓」第一回を掲載する「大衆文芸」8月号を添え、「私は郭徳焜さんの友人です。郭君や自分が台湾に帰ってから起こった出来事を小説に書きましたので読んでください」という旨の葉書を書き送る。
・檀一雄氏から雑誌社に出版の世話をするから来てほしいとの連絡が入る。夢かと喜び胸おどらせ、挨拶のため不在を承知で石神井公園の壇邸を訪れる。
・朝日新聞の夕刊で「壇一雄、奥多摩で石にあたって重傷」の三面記事を読み驚く。
・2日 慶応病院特別病棟の特等室に入院中の壇氏を訪れ初対面の挨拶をする。壇はこれまでの事情を聞き「濁水渓」の出版については現代社という出版社の社長に話しをつけてあると言う。ほかに書いたものがあるかといわれ即座に「敗戦妻」、「客死」、「検察官」と3篇の小説を出す。
・2、3日後、病院に壇氏再訪。「小説は全部読みました。君はすぐにも小説家になれます」と太鼓判を押してくれる。
・その後も足繁く病院に通い入院中の一ヶ月あまりの間に多くの小説を読んでもらう。中でも「刺竹」という短編を手放しで誉めてくれ「この一篇だけで、君の小説家としての才能を認めます。君は百万円作家になれないけれど、十万円にはなれます」と言う「日本人は、究極において日本的義理人情にしか、興味を示さないから、君のような小説では新聞社が受け付けないだろう。もっとも、それは文学としての評価とは何の関係もないことだけれど」とも言った。原稿が全く売れなかったから天にも昇る気持ちになる。
・檀一雄が病院を退院し石神井公園の自宅に帰る途中、新潮社を訪れ「新潮」の編集者に自分の原稿を売り込んでくれる。また「小説公園」にも「文学界」にも口をかけてくれる。
・檀一雄から誘われ小石川・関口台町の佐藤春夫邸へ挨拶に行く。檀一雄が「この人が邱君です」と紹介すると佐藤春夫は「あの小説は合格です」と答え、出版に際し、推薦者となることを承知してくれる。
9月23日 佐藤春夫・千代夫妻、檀一雄、女流作家加賀淳子・吉村夫妻、現代社の責任者鶴野峯正の各氏を自宅での食事に招待する。のちに池島信平氏が名づけた「邱飯店」の店開き「初日」である。
11月10日 長男世悦氏が自由が丘の桜井病院で生まれる。
・九品仏の借家を引き払い多摩川べりに家を買い、移り住む。
・文藝春秋社の社員、薄井恭一氏を自宅に招いたところ、大阪の鶴屋八幡の食べ物雑誌「あまカラ」への執筆を依頼され、原稿料は入らないが連載の機会はありがたいと思い引き受ける。

12月 食べ物雑誌「あまカラ」40号に「食は広州に在り」の連載を始める(昭和31年まで2年半)。
5日 
現代社から『濁水渓』を出版する。
29日 檀一雄、檀一雄の友人の坪井與、日本で始めてのラジオ公開ホールをつくった小谷正一、小谷氏のの親友、筒井健司郎、文芸評論家の浅見淵、「文藝春秋」記者の薄井恭一、自分の小説の活字化に最初に力を貸してくれた西川満、安岡章太郎の各氏を自宅に招待する。

(参考)
 邱永漢著『わが青春の台湾わが青春の香港』、同『邱飯店のメニュー』。
「あまカラ」40号。

邱永漢著「私の金儲け自伝」。同著『香港発 娘への手紙』。

 「檀一雄の自筆年譜」(『坂口安吾・井上友一郎・檀一雄集』 現代文学大系53 に収録)。

 

(社会の動き)
 
近江絹糸で6月から9月まで労働争議。

1月 長女誕生後1ヶ月経ってから利成マンションに転居する。

・病院にいた頃は気がつかなかったが長女が生まれて1、2ヶ月経つうちに、首すじに赤い痣が目立ちはじめ、やがてそれが破れて化膿した。妻がびっくりして医者に連れていったらペニシリンを打たれた。それを40本打っても傷口がふさがず困惑する。
・活字に飢えていたので日本から「オール読み物」や「小説新潮」を送ってもらうようにしていたが、読んでいるうちに「ここに掲載されているものを小説というのなら自分にも書けるのではないか」という気になる。

6月 昭和23年末、荘要伝氏が「香港にいてもやることがない、在日占領軍司令部に働きかけることが自分の使命だ」といって香港から東京に渡り、東京で「台湾独立連盟」を組織し、占領軍司令部に出入りするようになったが、寝ている時に突然死亡。その原因はわからない。 

8月 香港から航路で日本に出張。横浜からAPLのウイルソン号に乗って香港に帰る。

10月 東京に行き、東大文学部大学院で勉学中の友人、王育徳氏から強制退去命令を受けているという窮状を聞き、その晩、宿に帰って徹夜で「密入国者の手記」を書く。

・中等科時代、文学上の指導を受けた西川満氏を阿佐ヶ谷の自宅に訪ね、雑誌への掲載を依頼する。
・2、3日して香港に帰る。

(参考) 
邱永漢著 『食は広州に在り』。同著
『私の金儲け自伝』同著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。同『失敗の中にノウハウあり』。  



(社会の動き)

2月1日 日本でNHKがテレビ放送開始。
3月 ソ連のスターリン首相が死去。スターリン暴落。
7月 朝鮮休戦協定調印。
8月28日 NTVがテレビ放送開始。

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