邱永漢詳細年譜

作家、事業家。邱永漢氏の詳細な年譜。


・商売が下火になるにつれ、香港の喧騒が気に入らなくなり郊外の沙田でパパイヤ園を経営することを考え何回か現地を見に行く。
また香港を脱出して、セレベス島でコーヒーを経営することや、ボルネオ島で近海で取れる高瀬貝を集め日本輸出する仕事を考える。さらに勝手知った日本で新規の仕事を始めることも考える。
・借りていたマンション・チャタム・コートと隣り合わせの
利成新邨(12軒の英国風の庭付き高級住宅群)の奥から3軒目の2階建てのマンションを買う。手元に残っていた3万香港ドルを自己資金とし、妻の父に担保を提供してもらって自己資金と同額の3万香港ドルを借り入れた。
・のち、この家にもう一階つぎ足し、自分たちは一階に住んで2階分と背中合わせの十軒の英国風の閑静な住居群の奥から三軒目の二階建ての家を買う。
12月21日 長女がセント・マリー病院で出生。香港生まれは英語名があり、夫人はジョセフィーヌという名前にするという。ジョセフィーヌはナポレオンの皇后で漢字のあて名は如世賓である。ただ世賓では女性か男性かわからないので世嬪と命名する。

(参考) 邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。同『失敗の中にノウハウあり』。


・高級マンションに住み、自家用車を持ようになると周囲からちやほやされるようになり、結婚をすすめる人が現れる。
3月、居候をしていた寥文毅邸の老女が寥邸の隣家で、香港で有名な薬屋である藩家の三女、苑蘭との見合い話を持ってくる。近所に住む趙夫人に同行してもらって、藩家を訪問し、見合いする。
・2、3日後、藩家一家のピクニックに誘われ、ポータブルの蓄音機を鳴らしながらダンスする光景に見とれる。

4月14日 見合いしてから3週間あまりのエープリル・フールの日、婚約する。

5月10日 香港島の駐冊署(戸籍を扱う役所)で結婚式をあげ、九龍側の広州大酒家の3階を借り切って披露宴を開く。披露宴のあと風俗習慣の違いから新婦側の親族と喧嘩し、新婦を連れ去られる。

     11日、 女中さんのとりなしで、新婦を連れ戻し、新婚生活を始める。

・ 結婚した頃を境として郵便小包商売の真似をする人や、大々的に密輸する人があらわれてきて商売が儲からなくなる。

・東京の市場視察を兼ね、新規の仕事を探す目的をもって、羽田に飛ぶ。

・東京で義兄から、相模原や厚木の米軍キャンプ付近で、外人専用の冷暖房つきのマンションを貸す仕事が考えられるとアドバイスを受ける。その話に乗り、「土地購入代として1000万円の資金を出す。適当な土地があったら買ってほしい」と姉夫婦に土地の選定を依頼し、香港への帰途につく。

・日本から香港に向かう途中、神戸のデパートで文庫本や雑誌を買う。檀一雄さんの著作「リツ子・その愛」(新潮文庫)や南氷洋へのルポ記事を見て「この人有名な作家になっているんだなあ」と思う。

       香港に帰ると、義兄から「適当な土地が見つかった」と連絡があり、すぐ買ってくれるよう連絡する。

・そのあと、義兄から「チュウインガムの経営を引き受けることになった」と連絡があり、1000万円はそちらに回ることになる。
 

(参考) 

邱永漢著『奥様は料理がお好き』。
同著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。同著『失敗の中にノウハウあり』。

(社会の動き)

9月 サフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調印。


・郵便小包の商売が倍々ゲームで伸び、商売を始めてから一年後には100個も小包が出せるようになり、月に100万円儲けるようになる。東京の赤坂や新宿の土地(坪あたり1000円)が1000坪買える金額であり俄か成金の気分を味わう。
経済的に余裕ができたため寥文毅邸から5、6分のところにある漆圍(チャタムコート)に新築されたマンションの一階を借りて住む。
金のない時ひもじい思いをしたので、オースチン70という自動車を買い、運転手と女中を雇う。
マッキントッシュの服を仕立て、バーバリーやバリーの靴を買う。
若者たちを連れてキャバレーに行くが楽しむことはできなかった。
しかし金のないときは飢え死にするかもしれない恐怖にさらされたし、20代に儲けた金は残らないと聞いていたため、月々収入の十分の一程度で暮らすようにする。このため手元に日本に預けている金を含めて2000万円の金が残る。

(参考)

邱永漢著『奥様は料理がお好き』。同著  『わが青春の台湾 わが青春の香港』 同著 『鮮度のある人生』  

(社会の動き)

(社会の動き)
6月18日 陳儀が銃殺される

  25日 北朝鮮軍が三十八度線を越えて韓国内に侵攻し、朝鮮戦争が勃発する。

この年、寥文毅氏が日本に移住し、台湾民主独立党を結成。     

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