邱永漢詳細年譜

作家、事業家。邱永漢氏の詳細な年譜。

 

1月 引き続き浮浪者の実態と世論調査にかかるが、台湾からの引揚者を運搬するための舟が動くことになり、台湾に帰ることを決める。
・東京で開催された「新生台湾建設研究会」(会長、朱昭陽。副会長、謝国城、副会長)に出席する。 

2月 日本女子大を卒業した妹、堤孝子に邱素沁の中国人名前をつけ一緒に横須賀から2週間かかって台湾、基陸に着く。

祖故郷台湾の再建を夢に描いての帰郷であったが、蒋介石が中国大陸から送り込んできた国民政府行政長官陳儀率いる役人たちが汚職の限りを尽くし、夥しい紙幣の印刷でインフレが止まるところを知らず、全島に怨嗟の声が満ちていることを知り、愕然とする。

・故郷の台南に帰る。父にインフレへの防備の必要を説くが受入れてもらえず、自分に相応の仕事もないので台北に出る。

・残務整理のため台湾に残っていた元台湾総督府主計局長塩見俊二氏の世話で楊廷謙とともに台湾省財政府(主計局の後身)に入庁。

・国民政府が日本留学組の締め出しにかかっており、仕事がないため3ヶ月で退職。
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台南州の大地主の息子で、台北市に住む寥文毅氏が雑誌を使い、政府から無視されている不平分子をため「省都無力者会議」開催。この会に時々、出席し、片隅で小さくなって坐わる。

・日本留学組が起こした「私立延平学院」(大学)の設立運動に参加し、出資を募る。 

・大学設立までの暫定策として大同中学で英語を教える3ヶ月で退職。 

・「私立延平学院」の設立認可は高校までで大学の設立は認可されなかったために、台湾に帰る船の中で知り合いになった若者たちとプラント工事請負会社を設立。総経理を勤めるが仕事が一つしかとれず解散する。

・大学の先輩、林益謙氏に相談に行き、林氏が主任を務めている華南銀行の研究室の研究員となる。仕事の傍ら東大経済学部に提出する博士論文「生産力均衡の理論」を執筆する。
12月26日、台北市の中心部の教会で開かれた頼 永祥の結婚式に参加する。
 この年、「文芸台湾」の創始者、西川滿氏が
台湾から日本に引き揚げる。
 

(参考) 
邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。
許雪姫, 張隆志, 陳翠蓮訪談、頼永祥等紀録『坐擁書城 : 頼永祥先生訪問紀録』. (口述歴史專刊)


(社会の動き)
1月1日 
天皇が年頭詔書で,天皇の神格を否定した「人間宣言」を行う。 
4月20日 在台湾日本人の引き揚げがはじまる。
5月31日  勅令により、台湾総督府廃止。
12月31日 行政長官・陳儀、ラジオ放送で『民族精神の昂揚と(日本帝国主義による)奴隷化思想の払拭を教育の目的に」と強調。  


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9日  同級生、松本英男の下宿先、小石川、岡山県人寮でB29の空襲で本郷方面が燃え上がるのを見る。

  10日、夜の明けるのを待って、後楽園まで歩き、電車道を真砂町あたりまで来て、屋根が焼け焦げた匂いに気づく。煙のくすぶる中を通り過ぎ、赤門と下宿先の赤門前の路地を入った一角が奇跡的に残っていることを知る。

 ・親友、松本英男の厚意により、岡山に疎開する。岡山で昼は農業を手伝い、夜、卒業論文にかかる。

89日 畑に出ていたとき、西側で稲光を感じる。間もなくして広島に新型の爆弾が落とされ、町中が一瞬で木っ端微塵になった噂を伝え聞く。
  14日 明日ラジオ放送で天皇陛下の玉音放送があると聞き、確信を持って戦争が終わると疎開先の家の人に言い、訝しがられる。

  15日 玉音放送を聞き予想通り日本が破れ、戦争が終結したことを知る。

  ・東京に戻り戦争中、アジアの留学生のために建造されていた大東亜学生寮(世田谷区等等々力)に居住。

  ・台湾人同士の横の連絡をとるために「新生台湾建設研究会」が結成され出席。朱昭陽、謝国城、楊廷謙などの台湾出身者を知る。

9月 東京帝国大学経済学部を卒業。

10月 東京帝国大学経済学部大学院に進学し財政学を専攻。

 ・大学院に進んだ薄信一氏とともに「東大社会科学研究会」を結成。大河内助教授を指導教官に迎える。この会に集まった学生たちで、壕舎生活者の実態調査を提案し実施。

12月 調査結果をタイガー計算機を使って集計。会を代表して「壕舎生活者の実態調査および世論調査結果報告書」を執筆、発表。東大新聞に掲載。朝日、毎日、読売、日経の各新聞がとりあげる。


(参考)
邱永漢著『わが青春の台湾 わが青春の香港』

(社会の動き)

3月 B29により東京が無差別爆撃を受ける。

7月 アメリカがイギリス、中華民国と協議のうえ、三国共同宣言として、日本に降伏条件を示したポツダム宣言を発表。

8月6日、広島に原子爆弾が投下される。長崎にも原子爆弾が投下される。

 9日 ソ連が対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太に侵入する(8月末には千島を占領する)。

 14日 日本がポツダム宣言を受諾。

 15日 天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表。

 28日 アメリカ太平洋陸軍総司令部が横浜に置かれる(9月17日、東京に移設)。
 30日 連合国最高司令官総司令部(SCAP)が横浜に置かれる(9月17日、東京に移設)。

10月 台湾の行政権は台湾省行政長官・陳儀へ。



3月末のある日の朝、農学部の脇にある下宿で寝ているところを憲兵3人に襲われる。当時、政治意識の過剰に悩む青年であった。魯迅が仙台医専の卒業間際、「国民の健康よりその精神の方が大切だ」と学校を去った話に刺激され、中国大陸に渡ることを決める(下関から釜山に渡り、商船半島を通って満州に行き、そこから山海関ををこえて、中国に入る方法をを考える)。それを実行する前に「重慶政府のスパイではないか」と疑われ、捕まった。手錠をはめられたまま、都電に乗り、 麹町憲兵隊の留置場に連れていかれる。

4月 一週間、留置場に押し込められ尋問を受ける。全くの単独行動であったたため、「今後スパイの摘発に協力します」の一札を入れ、釈放される。
・釈放後、下宿に帰ると、おばあさんたちが、服を脱がせ、熱湯を沸かし、上からかけ、虱退治をしてくれる。 

10月、東京大学経済学部三年生になる。

・安平助教授「大東亜経済論」の試験で「満州国の統制経済について述べよ」との出題に対し、「満州国の経済は日本の海外発展主義と現地の合弁資本の合作によってつくられたもので、その土地の住民の利益と必ずしも合致するものではない」と書く。日本帝国主義と書きたい衝動に駆られたのを、自制し、「日本の海外発展主義」という曖昧な表現にやわらげたつもりであったが、「思想が悪い学生がいる」と橋爪経済学部長に報告される。橋爪学部長は「本人を呼んでこい。心を入れんかえないなら場合によっては、退学処分にする」と息巻く。 

  北山教授のとりなしで、退学処分は免れるが、北山教授から「信用を置けない人に本心を打ち明けたりするな」と諭され、涙する
 

(参考)
 邱永漢著『金銭読本』(「職業としてのスパイ」)。同著『サムライ日本』。同著『わが青春の台湾 わが青春の香港』。同著「金儲け未来学」(p 250) 
 

(社会の動き)

  6月15日〜7月16日、サイパン島に米軍が上陸し、日本人が玉砕する。

 7月4日 大本営、インパール作戦中止。 
8月 学徒勤労例が公布される。
10月 連合艦隊、レイテ沖海戦で日本の海軍連合艦隊が壊滅的大敗を喫する。
11月  汪精衛が名古屋で 客死。

     第二次世界大戦終戦 国際連合、成立。

 

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