これから、邱永漢詳細年譜を書いていきます。本年譜は邱永漢作品に描かれたことを元に作成するもので、なるべく典拠を示します。また年齢は満年齢とします(2019年10月11日 戸田敦也)。
【お願い】この年表を論文などで用いる時は「戸田敦也」作成のものであることを明記してください。
Copyright(C) since 2008. Toda Atsunari. All rights reserved.
1924年(大正13年)満0歳 |
・ 3月28日 日本領土下の台湾、台南市の東門よりにある東市場の近くで台湾の古都である台南で台湾人の父、邱清海と日本人の母、堤八重の長男として誕生。戸籍上は30日生まれと届出された。
・ 父・邱清海は幼少の頃に祖父に連れられて福建省の汀州から台湾の鳳山に移り、そこから台南市に移って台南市の西門市場で野菜類を扱っていた。
・ 母・堤八重は福岡県久留米市東町の人で、生後祖父堤辰次郎がすぐ死亡し、祖母が台湾で肉屋を商う安武捨次郎と再婚したため台南に移り、台南で養育された後、東京女子商業高等学校で教育を受けていた。台南に帰り西門市場で実家の仕事を手伝うなかで父、邱清海と知り合い、結婚して夫の商売を手伝っていた。
・ 当時、日本の戸籍法と台湾の戸口法を結ぶ規定がなく、父と母は戸籍上は夫婦ではなく、また父には先妻があり、先妻、陳燦治(タァンツァンテイ)との間に子供がいなかったため、邱家の後を継ぎとして、邱炳南と命名され、邱家の籍に入籍された。父と母の間には既に長女の素娥(そが)ともう一人の姉が生まれており、この姉は夭折したが、のちに生まれた四人の妹と四人の弟、孝子、笑子、稔、寿栄子、裕、淳、剛、慶子には、すべて日本名前がつけられた。
(参考)
邱永漢著『耳をとらなかった話』(『私の運命カルテ』)。同著
『
オトナの憂鬱』(「母の二人いる家」) 。同著『固定観念を脱する法』(『華僑は国境をだはするパイオニア』)。同著『中国人と日本人』